物事に正否について

こんばんは

 

お久しぶりです。2ヶ月ぶりくらいですかね。

今回は物事の正否について書いていこうと思います。

この書き出し方Youtuber感が凄いですよね。身内のネタでもたまに使ってます。

 

正否ってのは文字の通り正しいか正しくないかの事を指してます。

物事にはまあ大体正しいか正しくないかってのが付きまとう・・・と思ってます。

例えば道端で苦しそうに蹲っているを見つけたら、まあほとんどの方が助けるのが正しい選択かと思います。特にこの日本では。

でも中には本心では助けたいと思ってるけど、恥ずかしくてとか思ったりして声をかけれずにただ傍観するだけになってまう方もいるんじゃないでしょうか。

僕もそのうちの一人です。実際に目の当たりにしたわけではないですがおそらくそうなったら声をかけれず助けてあげれないと思います。

そんな理由で人を助けれない俺はなんて・・・!と思わなくていいとは思います。

僕的には物事において取った選択は全て正しいと思ってます。逆に全て正しくもないとも思ってます。

人によって価値観は違います。微妙な違いから大きな違いまで様々です。

人と関わる以上自分とは必ず別の価値観をどっかしら持っています。つまりそういう時に自分の正しいと相手の正しいがぶつかり合うわけですね。そう言うので口論になると思います。

それでいいんです。それでこそ人だからいいんです。というか価値観に違いが無ければ別の記事でも書きましたが文明は発達しません。みんなと違う人間がいるからこそ、誰もが気づくことが出来なかった違う道を発見し新たに文明を発達させて行くことが出来るんです。

 

しかし、昨今の日本ではインターネットが普及していろんな方の価値観の主張が目に見えてしまってる現状、今の若者全員ではないですが、昔に比べて誰もが正しい!といえる選択を取るように思ってる方が多々いるのでは無いでしょうか。

まあ僕もそのうちの一人なのですが。

誰からも正しいと思われる行動言動を取ろうとするのは良い事だと思います。

でもあくまでそれは社会を生きるための処世術にしか過ぎないと思ってます。

お友達間でもそういうことになるとちょっとそれは違うんじゃないかと思います。

お友達ってのはやっぱり一緒に遊んで楽しいから友達であって、文句を言われないために無難な行動を取る相手ではないです。

でもそれで相手から否定されたら辛い!という方は多分その方とお友達を続けるのはあまり良くないと思います。

別にそこまで深く付き合う相手でも無い、というのであればそこは構いませんが、無理して合わせてたり、無難な言動行動を取っていても辛いのはあなたのはずです。

特に少数の価値観をお持ちの方は人間関係で結構辛い目にあって誰に対してもそうなってしまわざるを得なくなってしまってる方もいると思います。

でも世の中は広いのでもしこの記事を見かけた方は取り敢えず自分をちょっとずつでも良いので出してみても良いんじゃないですかね。

 

話がそれましたがここからが本番です。

最近、みんな自分の正しいが絶対的な正義だとでかでか主張するの好きすぎじゃない?ということです。

今日、どっかの場所でこういう事があったのが間違いだと思ってこうしてやった!!!

そういうのがもー嫌ってほど目に付きます。僕は良くないと思います。僕らよりもっと若い人たちの価値観が狂ってしまいます。こうあるべきとかこうすべきと思うのは良いことです。ただそれをでかでか主張して、またそれに対して称賛する声が上がったりするのどうなってんねんと思います。

まだ社会の右も左も分からない若者の価値観が固定されていきます。そりゃ世の中には絶対レベルで正しくないだろ!というようなものがあります。それはやっぱり犯罪とかですね。

殺人とか強盗は絶対NGです。それはもう価値観云々の問題じゃないです。

というか人が許しても法が許しませんので。今の時代で殺人が普通に許容されている国ってあるんですかね・・・。

話がそれました。人を傷つけるような発言でも少数ですが人によってはそれが逆に良いと受けてしまう人もいます。SとかMとかそういう話ではないです。

1000人中999人が正しくないと思ってることでも1人が正しいと思ってることなんてザラです。そしてその正しいはもちろん悪意あっての正しいではないです。

というか悪意があったらもうそれは本人が正しくないと分かってる上での行動になると思います。

 

僕は1000人中999人が正しいと思ってる行動の全然違う行動をしてる1人を見ると魅力を感じてしまいます。

 

日本人特有なのかわかりませんが他人の正しくないを見たらそれに口出しする人がちょいちょい見受けられます。人間なんだから価値観が違うのは当たり前なのに何か無理やり自分の価値観に合わせて行こうとする人。

価値観が合わなければ放って置くのに限ると思います。価値観が違う人同士でぶつかりあったら互いの正しいが延々と衝突して一生終わらない気がします。

そういうのは第三者がしっかり話を聞くと大体両方共筋が通っててその人なりの理由があってそうしてるのがあります。だからこそ終わらないんです。

それが友達とか、夫婦や仲間間でそういう衝突が起きた場合に初めて妥協が発生するんです。どちらも正しいのでどちらかが折れるしか無いということです。

何でもかんでも正しくすべきと改善しようとする人いますが無理です。絶対無理です。

あなたが正しいと思ってる事は絶対的に正しくないと思ってる方はどこにでもいます。勿論正しくないと思ってる事を絶対的に正しいと思ってる人はどこにでもいます。

 

要は犯罪に手を染めなきゃ好きなことしていいんですよ。この世の中。

何やったって正しくて正しくないんで。

 

以上。

不特定多数の人と何かする時

こんばんは

 

僕はとあるネットゲームに嵌っています。

無職でネトゲに嵌ってるとかやばいだろって感じですよね。そろそろ働きますよ・・・。そろそろ・・・。

 

それはさておき、題名の不特定多数の人と何か遊ぶ時、です。

ネットゲームであればそれは勿論です。名前どころかどういう人か、性別すら分からない人と一緒に協力したり、対戦したりすることがあるゲームです。

 

そんな中で一緒に協力してダンジョンを攻略している時に、自分の意に沿わない発言や、行動をした人に対してすごい怒る人がいるのを何度も見たことがあります。

まあ僕も過去にそういうことに対して面と向かってふざけんなこのやろー!と言ったことは無いですが裏でふざけんな!と言っていましたが年を取って、色んな人と会ったり話したりして分かった事があります。

まず怒りの感情について僕なりに思ってることを書きます。今回は初めて箇条書き的な感じでやっていこうと思います。

 

・怒りの感情について

まず物事に対して怒る時、ほとんどの人がぶっちゃけると自分の為に怒っています。

Aさんが自分にとって気に食わない事をした。

その気に食わないという感情を解消する為にAさんに怒った、もとい八つ当たりをして自分の嫌な気持ちを解消しているのです。

怒りの全てがそうとは言いませんが誰かが誰かに対して怒ってる時のほとんどは自分の為に怒ってると思います。

別にそれが悪いわけじゃないですし、自分の感情を大切にするのは良い事だと思います。

ただそれが全く別の他人に対して、となってくるとまた変わってきます。

世の中色んな人がいます。全く知らない人の行動に対してムカついたと言って怒ったり、面と向かって文句を言いに言うのは言われた側の事を何も考えていない軽率な行動だと思います。

 

・怒りの感情をぶつけられた全くの他人について

箇条書きになってますが結局怒りの感情の話の続きです(´・ω・`)

全く知らない人から面と向かって文句を言われるとそりゃー気分悪いですよ。

仮に自分が明らかにそれはやったらいかんでしょと自分で分かっててやってしまった時に怒られてもやっぱり気分が悪いものです。

ただ自分が悪いと思って無くてやったことについて文句を言われたりするとどうでしょう。そりゃームカつきますよ。

は!?と思って言われた側も相手に対して敵対の感情むき出しで相手の事を見るので互いに怒り合って互いに嫌な思いをして終わりです。

全くの他人が、他人でなくても知り合いが良かれと思って言った発言や行動に対して文句を言うというのは相手の思想を頭から批判しているということです。

例えそれが間違っていたとしてもそれに対して頭から文句を言ったり批判したりすれば言われた側は相手がどれだけ正しかろうと相手に対して怒りしか覚えません。

それは当たり前です。人は感情で動きます。物事において正しいか正しくないかは二の次です。まずその時どう思ってるかが次第でその後の態度が変わります。

人として感情で動くのが当たり前なのです。寧ろ感情で動かなければロボットと一緒です。

逆に相手の発言が間違っていたとしてもカチンと来る言われ方でなければ相手に従ったり許せたり、ここはこうした方がいいよ教えてあげれたりするものです。

 

・じゃあ誰か一緒にこなす時どうするの

知らない他人の人と何かする時、その他人の人が自分の意図と沿わない人間だった。

悪い人じゃないけど一緒になにかするにはその人の能力は低すぎる。

そういう事があって相手に強く当たってしまう。誰でも有ると思います。僕も過去はそうでしたし。

それはもうどうしようもないんです。不特待多数の人間が集まる場で自分の意に沿う人だけが集まるだなんていう考えそのものが自分勝手すぎるのです。

相手は自分とは違う考えを持っている。自分が正しいと思ったものは相手に取っては正しくないと思っている。

そのつもりでいかなければなりません。だからしょうがないんです。自分が思ったとおりの事と真逆の事をする、そもそもあの人下手くそすぎてキツすぎる。

でももうやるしかないんです。文句を言ったところでなにも変わりません。

文句を言ったところで解決するのは自分が勝手に他人に期待して勝手に裏切られて勝手に嫌な思いをした感情だけです。

しかもそれは解決したと思いきや、相手に悪い感情を植え付け負のループを生み出して寧ろ悪い方向へと持っていくだけです。

じゃあしょうがないって諦めろって事かよ、という話ですがこの場合のしょうがないは諦めではなく許容だと思っております。

 

不特定多数の人間を操作する、というのなんて不可能です。

何故ならそれは国の王だろうが総理大臣、言うなれば神ですら出来ないことだからです。

総理大臣の人が今すぐ私に500万のお金を下さい!とか持ってる食料全て私に下さい!と言ってはい、わかりました!!!って言いますか?

目の前に神がいてお前のパソコン壊して良い?と言われて はいわかりました!と答えれますか?

まあ普通に考えて従いませんよね。

それに従う場合は何らかの見返り、またはそれを強制的に行わなければ行けない縛り(法的な圧力とか)が無い限り従わないです。

総理大臣や国王ですら出来ない事をたった一人の一般人が言ったところで誰かやるんだよって話です。

その考えに対して手を上げて賛同する人はいるかもしれませんがそれは極少数です。

手を挙げずに心の中でそれは正しいと思う人はいっぱいいるとは思いますが。

発言する人がその中で何らかの立場、というものが明確に決まっているとまだ話は通りやすいです。

スポーツチームであれば監督がこうしなさいと言えば内容が意に沿わなくてもしぶしぶ従うでしょう。

会社であれば上司の人が言えばこいつだりーなーって思いながらもしぶしぶ従うでしょう。

ただ、あくまで通りやすいです。しかもしぶしぶ従ってるだけです。

それに反発する人も勿論いますし、しぶしぶ従ってるだけなので自分の言ったことに対してその人が出せるパフォーマンスは100%で返ってくることも無いでしょう。

 

そんな立場が明らかに自分より上の人間が発言したことに対してすら反発があるのに全員立場的に平等な中でこれに従え!って言うのが通るわけがないという話です。

だからいろんな人がいる、という許容をした上で一緒に頑張っていこうぜ、と言ってやっていくのです。

知らない人と仲良くしていくというのはそういうことです。

国王ですら、総理大臣ですら、神ですら出来ない事をやるなんて無理なことです。

ただ中には誰に対しても攻撃的な姿勢を取る人間がいます。そうやって攻撃的な姿勢を取って相手がやられてるのを見て楽しんでる人間がいます。

そういう人は関わらないのが一番です。何を言ってもどう頑張ってもこちらに攻撃的な姿勢を取ることが目的なので無視が一番です。

そうやって行けば何とかなるんじゃないかなーって僕は思いますしそうやって来た中で色んな人と仲良くなりました。

 

僕は不特定多数の人間を操作する事が無理であるのは良い事だと思ってます。

寧ろ無理であるからこそ、人なんです。もしこれが可能になると色々と矛盾が生じてしまいますし、違う思想の人間がいるからこそ色んな文明や発明が出来ていくのです。

 

ちなみにネットゲームというのはFF14のバルデシオンアーセナルの事です。

 

以上。

日本に浸透しつつある精神論

こんばんは

 

本日は精神論についてです。

精神論、と聞くと皆さんどういうものを思い浮かびますか?

気合があればどうにかなる!気持ちが足りないから駄目なんだ!という様な事を思い浮かばないでしょうか?

僕が言いたい精神論はそうじゃないです。というか精神論に当たらないと思ってます。

 

気合や気持ちでなんとかするのは精神論ではなく根性論です。

その人の心の体力を消費して、なんとか物事をこなす事です。

これについて本人が自分を奮起させる時、または本当にもう気合でどうにかするしかない場面で使われるものだと思います。

なんでもかんでも根性で解決しようとすると恐らく身体は健康でも心がダウンしてしまいます。

では精神論というのは本人がどう感じて、どう考えているか、というの考慮した上でと思ってます。

人の楽しい、悲しい、辛い、嬉しい、という感情を尊重するということです。

昨今の日本ではこういう感情を大事にした上で仕事を与える、仕事をする、遊ぶという考え方が広まってきているんじゃないかなと思ってます。

10~20年ほど前の日本であれば気合でどうにかしろ!日本人なら頑張れるだろ!みたいな意見が飛び交っておりましたが、今の日本でそんな事言おうものなら批難殺到です。

ほとんど暴力と変わりませんからね。相手のプライドや心を大きく傷つける行動、言動は下手な暴力よりもたちが悪いと思います。

海外ではそういう行動を起こした人は逮捕されるまでに当たるんじゃなかったでしたっけか。

話が逸れました。人は感情で動く生き物です。楽しい!という感情があれば体力的に厳しくてもこなせることもありますし、極論を言えば病ですら感情一つでどうにかなります。

病を倒せるってんな馬鹿な、と思いますがそうなると興奮してしまって高血圧により意識が無くなるとか、気が滅入って目眩がするなどの症状はどう説明されるんでしょうか。

感情一つで体調の良し悪しさえも変えれるのです。勿論限度はありますけど。

癌になったけど遊んでれば治るだろ!

いやそんな事はないのですぐに病院に行って適切な治療を受けてください。

あくまで治療の助けになるだけであって完全な万能薬ではないので。

 

楽しいと感じる物事には勝手に工夫したり、より高いレベルの事をやろう!と思えるものです。限度はありますが・・・。

逆につまらないと感じる物事に対しては素っ気ない対応になったり、雑な対処になったりするでしょう。そりゃ当たり前です。楽しくないものを進んでやるのなんて何らかの対価があるからです。

楽しい上に対価がもらえるとなるとそりゃー喜んでやりますし、求められた以上の働きをするでしょう。それが精神論です。

他人も自分の感情も尊重することでより良い関係や結果が生まれるんじゃないですかね。

 

以上。

脳の・・・能力?

こんばんは

 

今日は脳みその作り、使い方について書いていこうと思います。

 

脳みそと言えば我々の行動全ての原因と当たる場所です。

これがあるから食べ物を食べる、寝る、セックスするという行いが存在があります。

脳みその作り?ってなるといまいちパッとしませんね。

 

例えばある人が苦手な作業があってその人に対して

「この作業が苦手なのは君は他の人と脳みその作りが違うね」というセリフを言ったとしましょう。

まぁ十中八九相手の反感を買いますね。遠回しにお前頭わるっwって言ってるようにしか聞こえないので。

 

ただ僕的には本質を捉えた発言だと思います。

本質捉えてたら悪口言ってもいいのか!?という話ですが頭が悪いという意味合いで言ってるのではなく、本当に脳みその作りの問題です。

僕は世の中の作業のほとんどは脳みその作り方次第だと思っております。

スポーツとか体の筋力、体力を使用するものになってくるとまた話が変わりますが。

 

ほとんどの人が出来ている作業が出来ないのは、他の人に比べて脳みその別の部分が発達しているからその作業が苦手なのです。

 

まぁ作業と言うと僕の大好きなゲームになります。陰キャなので対象がゲームなのは許してください。

 

全然そのゲームやってないのに最初からめちゃくちゃうまい人っていません?

そういう人って大体は今までそのゲームによって必要な脳を鍛えてきた人の一人なんですよね。

 

例えば敵の攻撃がどこからどこまでの広さでいつまで敵の近くに遠くにいても安全なのかって目に見えませんよね。でも今まで脳を鍛えてきた人には何回かそれを見たり、失敗したりしただけでコンマ数秒くらいのズレで認識出来るんですよ。

 

それは他のいろんなゲームでこれでもか!というくらいその練習をしてきたからだと思います。体で分かっちゃうみたいなんです。そういうのが。

逆にファッションとかデザイン性が重要なゲームなってくるとからっきしです。

どうやったら見栄えが良いのか、とかどうやったらかっこいい、可愛いのか、というのがぜーんぜんわかりません。何故ならそういう部分は鍛えてこなかったからです。

 

たまーに天性的なセンスで全然練習してないのに分かる人がいますけどほとんどは過去にどれだけ鍛えてきたかで結果として現れます。

 

こういうのは無意識レベルで脳が動いているんですよね。こうやったら良い、こうやったらうまくいく、より効率が良くなるとかなにかの動きを起点にすでに頭の中でタイマーが始まっているとか。

 

つまり人の得意不得意のほとんどは今まで生きてきて脳のどの部分が鍛えられているのか、鍛えていないのかで決まると思ってます。完全に自論です。医学的根拠一切なし。

 

あ、後ある程度は遺伝もあると思います。遺伝によって既に特定の能力が発達していたり、逆に全然発達していない能力があったりと思ってます。

ただ仮に合ったとしてもある程度は伸ばそうと鍛えなければ意味ないですが。

 

色んな人がゲームのスコアアタックやスピードランにやる気を出すのは

今まで鍛えてきた脳をフルに活用する場面だからだと思います。

 

要は自分の今まで鍛えてきたものが数字というスコアとして結果になって目に見えるわけですね。

スポーツも一緒ですよね。Aさんすごい足速いよ。と言われても

何メートル走何秒?というのが分からないとぶっちゃけなんとなくでしか早いなーとしか思えないですよね。

 

そういうのを考えると世の中のあらゆる物事などに脳の能力が関係していると思うと

面白いなぁと思いました。

 

以上。

需要の移り変わりを感じます

こんばんは

 

突然ですが僕は漫画を読むのがとても好きです。

今は電子書籍という大変便利なものが普及したおかげでどんだけ本を買ってもかさばらない時代です。

まぁ中には実物が無いと安心出来ない、とか、やっぱり実際に手でめくったほうが良い、などの理由で電子書籍を敬遠する方もいます。

かくいう僕も元はというとそういう人間だったのですが、漫画を買う量が多くてもう部屋のスペースが足りないので電子書籍に移りましたが、これ便利ですわ。まじで。

でも何らかの理由で急に電子書籍が無くなるって事があったみたいですが・・・

正直そんなこと言い出したらキリが無いのでその人の好みなんじゃないですかね。

実物でも無くなるときは無くなりますし。現物が手元にあれば絶対大丈夫なんて僕にとっては幻想にしか過ぎないと思ってます。

 

それはさておき、最近いろんな漫画を見たり、読んだりしてて思った事があります。

なんかもうお前は評論家(笑)かって言われるかと思います。

正直最近の漫画は質が低い。です。

じゃあ買わなきゃいいじゃんwって話は取り敢えず置いといて、その質が低いと刺される漫画は具体的に何?って話ですけど

まぁストーリーが雑だったり、なんか取り敢えず書きたい展開の為の途中が雑すぎるとか、作者が書きたいものだけを書いてるとか。

いやそんな漫画昔からあるから、という話ですが確かにそうだと思いますが

最近はそういう漫画がメインとして出てきている印象を受けます。

 

そういう漫画がメインとして出てきている、と言うことはどういう事かと言うと

それが消費者の需要となっているということです。

え、じゃあ寧ろ今の経済に対応してるし良くない?となりますよね。

 

・・・本当に?

 

ここで今の需要に対してどういうつもりで漫画家の方が書いてるかですよね。

まぁ今これが売れるならこういうの書くかーみたいなつもりで書いてるのか

やったー、書きたいもん書いてるだけで売れるーwというつもりで書いてるのか。

 

まず僕はなぜ書きたいもんを書けば売れる時代になったのかというとこなのですが

それは消費者と漫画家の距離がすごく近くなったからだと思ってます。

 

昔は漫画家の人が普段何考えてるのか、とかどういう人なの?とか

そもそもこの漫画おもしれーwでも作者知らねーwという人も多かったんじゃないでしょうか。

 

それに反して今はインターネットが普及して、作者の人との距離がすごく近くなってると思います。それによってこの作者買いみたいなのが出てくるんですよね。

 

特に根拠があるわけではないんですが、距離が近い人の作品とかってある程度内容が雑だったりしても楽しめる、と思うんですよね。だって仲の良い人の作ったものってだけである程度楽しめませんか?

そうでない人もいるかと思いますが、そうである人も一定数はいると思います。

結局それが需要となって現状の作者が書きたいだけのものが売れていくという事になるわけです。

 

あまりにも供給者側に偏った状態になってるわけです。

昨今の日本ではものを作る立場の人間を大事にしていない!と言われていますが

現状はあまりにも甘やかしすぎ、と思えます。

 

身内の馴れ合いがそのまま商業に出てきている、という風に思えます。

利益が大事でない世界だと、もうものを作る側の人間の自由です。そんなもの趣味の世界ですから誰かがとやかくいうものではないですし、未来永劫それでいいと思います。

 

ただそれが商業にまで出てくるとやばくね、って思います。

いやいや、だからそれが需要に合ってるんならそれで良いじゃんという堂々巡りになるかもしれませんが

それはあくまで今はその需要だから、という事に過ぎないと思ってます。

今の需要に甘えて作ってるんだとしたら、恐らくどこかでとんでもないどんでん返しを受けます。

消費者は基本、供給者側の都合なんて知った事ないです。仲良し小好しの関係で無い限り今の自分が必要としているものを買います。

 

そういうのが今の日本を~と言われますが、そんなものどこの国でも一緒ですし

エンジニアや技術者の方々の扱いは会社内の話がほとんどです。

またはGtoGもそれにありえると思います。(企業間におけるやり取りの事です)

 

日本の場合は最低賃金に対して求められるサービスや商品の質が高すぎるのが問題の原因だと思います。細かい話は一個前の記事をどうぞ。

 

こんまま行くと下手したら漫画消滅するんじゃないかなーとちょっと思ったりしてます。

まぁ僕心配性なんでそんな事ならないとは思いますが、ただどこかの需要の切り替えで

今の状況に甘えてる人は辛いことになるんじゃないかなと思ってます。

 

なんか途中で飽きたのでいろいろ端折ったりしてます。

それに多分誰も見てないだろうなとも思ってるので。

 

以上。

楽な仕事は無い

こんばんは。

 

今回の題名は楽な仕事についてです。

誰もが思いますよね、楽な仕事やりたい!って。ほぼ断言できるレベルで楽な仕事は存在しないと思ってます。社会経験たって数年ですが僕は無いと思ってます。

 

なぜ断言できるかというと仕事には必ず競争相手がいるからです。

新しく考えた事業で最初はいなくても後から出てきます。

結局競争相手がいると言うことは顧客に対して更に良く思えてもらえるように工夫をしていかなければなりません。ってなると競争相手側もそれに対抗するよう工夫しなきゃいけないですよね。

 

つまり仮に楽な仕事が存在しても、楽なのは一時的で必ず後から大変になります。

それでも楽したーいってボケーッとしてたら気づけば会社は倒産という形になるのが目に見えてます。

 

僕はこれには日本の現状の経済も関係してるものだと思います。

いやまぁ至極当然な話というかどこの国も必ず関係してますが・・・。

日本にはブラック企業まみれな会社が多いですよね。安い値段で良い商品、良いサービスが受けれる国ではあります。そんな中で何故そんな安くするのか、何故もっと雑に商品を作って人を減らしたりとかしないのか、と。

 

それは上の話を繋がってて競争相手がいるからです。社長がホワイト企業目指しまーすとか言って、商品の値段を上げたり、サービスの質を下げるとしましょう。

そうすれば競争相手からすれば良い事尽くしです。勝手に相手から負けに来てくれるんですからね。

僕らユーザーもそうでしょう。1000円と2000円で性能的に同じ商品があったらどっち買いますか?という話です。言うまでもなく1000円ですよね。特にそのメーカーの商品に拘りがなければ。

要は簡単にホワイト企業にしろとかいう話がありますが経営陣数人による判断一つで経営破綻になり、全社員の職が無くなる、となると経営陣的にもそう簡単に商品の値段を変えたり、サービスの質を下げれないんです。

 

現状の状態からホワイト企業までに持っていくというのはとても難しい話です。

黒い部分が大きすぎるが故に白くしようとしてもすぐに黒に塗りつぶされちゃうんですよね。

政治もそうなんじゃないかなーと思います。今の政治家はパーばっかです。そんな中で国民のための政治を!とやろうとしても自分優先の政治家が多すぎて結局そんな人達に潰されてしまいます。

 

だから誰も立ち上がらないんです。あまりにも危険なので。

 

仕事をやめてはや半年、僕もそろそろ仕事しないとなー・・・。

 

以上。

普通普通って言いますが

こんばんは

 

本日は誰でも口にする「普通」という言葉についてです。

まぁ昨今の日本では普通という言葉を口にすると普通ってどっからどこまでが普通ですか? とかあなたの普通を押し付けないで下さいとか返ってくる時代になりましたね。

 

まぁこれは普通、と言う言葉が多くの人を苦しめた結果、反感を買いやすい言葉になったと思います。

では普通、という言葉は使ってはいけない言葉なのか?となりますと

いや決してそんな事は無いと思います。普通という体の良い言葉で相手の文化や思想を一方的に否定したことによって一部の人にとっては嫌な言葉として存在しています。

 

僕的普通という言葉は単純に過半数以上の人間が選ぶ行為や思想などの事を指していると思ってます。

とある時に誰かの発言などに対して僕は「まぁ普通の反応だな」と感じた時がありました。その時に「いや、普通という一括りにするのはこれ如何に・・・?」と思い、その事について考えてきました。

僕が出した結論としてはその人が関わってきた人の中、見た聞いた意見のな中で単純に多くの人が選んだ選択肢に過ぎないとということです。

その人ってのは普通という言葉を思った、口にした人の事です。

今の日本で注目されている内容で言えば異性愛は 普通 なんです。かなり反感を買ってしまいそうな内容ですが、そりゃ当然な事です。異性愛の方のほうが多いので。

だからって別に普通じゃない人がどうこうって話じゃないです。

普通じゃない、過半数ではない人が取った選択肢。ただそれだけです。

難しく考えすぎなんですよね。本当にたったそれだけの事に過ぎないのです。僕の中で普通じゃない≠おかしいという印象です。時と場合によっては=にはなりますが絶対的に=でもないです。

初めて会った人の事は基本異性愛者だと思いますよね、アジア人の顔立ちしてる人に会ったら日本人だと思いますよね、日本人に対して最初っからベジタリアンだと思って接しませんよね、日本人を虫を食べる人だと思って接しませんよね。

僕はそういう事だと思います。日本人同士が会ったら普通、ある程度今まで出会って来た人達の共通認識範疇内で話し合うものだと思います。そうではない人に会ったらそういう人がいた。たったそれだけの話です。

へー珍しいね程度の話ですし、今まで会った事のない思想や文化を持つ人間はそりゃ気になりますよ。人間誰だって好奇心を持っているのですから。それについて聞くのを相手が嫌そうにしていたら聞くのをやめる、それだけ。まぁ世の中にはそこでやめようとせず無理に聞き出そうとする方もいますがそれは駄目です。

 

過半数を下回る人間にたまたま出会ってだけで相手を一方的に否定したり、馬鹿にしたり、除け者にする人間がいてしまったが為に普通じゃないという言葉が相手をけなす言葉としてなってしまったのじゃないのかな、と思います。

 

過半数を下回っている人間を馬鹿にした人もまた一方的に悪いとは思いません。

結局そうやってきたのはそういう先人たちを見てきたからです。悪いのは人ではなくそうなってしまった環境、文化に有ると思います。

 

そういう意味では普通じゃないという言葉避けよう、というのは人が人を傷つけるのをなるべく避けるという心遣い。

わずかずつではありますがまたこれも日本が良い方向へ向かうためのかと思うと使用を控えるのがいいのかもしれないと思いました。

 

結局普通じゃないって言葉は駄目なんかい!って言われますと・・・どうなんでしょうね。変な締め方ですんまそん。

 

以上。